完璧な理解のみを理解と呼ぶのは狂っている
そもそも人間に完璧な理解など出来るだろうか
仮に出来たとしても、それは一部の人間であり
我々が普段使っている[理解]という言葉からは程遠いものとなる
これは[真の理解]などと呼び、一般的な意味での[理解]とは区別しよう
また、自分が理解することと、他人に教えることができることとは違う
これらを区別しなければ、我々が[理解]と呼んでいる言葉は崩壊する
では、一般的に言われている[理解]とは何なのだろうか
以下に二つの側面を述べる(説の名前は私が勝手に付けました)
・段階説
理解には客観的に評価可能な段階があり
我々はテストなどによってどこまで理解しているか評価出来る
ある程度理解していれば(その程度は時と場合により異なるが)合格であり
(充分に)理解していると認められるのである
また、ある人をぱっと見た時に「女だ」と思っても
よくよく見たら「......男だった」となることがある
低レベルな理解は明らかな誤解であり
このような理解は常に基準(ある程度)を下回っているものとして処理される
・干渉黙認説(独認説)
自分にとっての理解と他人にとっての理解は全くの別物である
私から見れば彼はイケメンだが
あなたには彼がブサメンにしか見えず
一生私の考えていることが理解出来ないかもしれない
いや、理解なんてものは自分の中にしかないのだ
結局は、私の感受性によって私にとっての[理解]が決められるだけであり
私が理解したと思えば理解したのだし
私が理解していないと思えば理解していないのだ
そもそも人間に完璧な理解など出来るだろうか
仮に出来たとしても、それは一部の人間であり
我々が普段使っている[理解]という言葉からは程遠いものとなる
これは[真の理解]などと呼び、一般的な意味での[理解]とは区別しよう
また、自分が理解することと、他人に教えることができることとは違う
これらを区別しなければ、我々が[理解]と呼んでいる言葉は崩壊する
では、一般的に言われている[理解]とは何なのだろうか
以下に二つの側面を述べる(説の名前は私が勝手に付けました)
・段階説
理解には客観的に評価可能な段階があり
我々はテストなどによってどこまで理解しているか評価出来る
ある程度理解していれば(その程度は時と場合により異なるが)合格であり
(充分に)理解していると認められるのである
また、ある人をぱっと見た時に「女だ」と思っても
よくよく見たら「......男だった」となることがある
低レベルな理解は明らかな誤解であり
このような理解は常に基準(ある程度)を下回っているものとして処理される
・干渉黙認説(独認説)
自分にとっての理解と他人にとっての理解は全くの別物である
私から見れば彼はイケメンだが
あなたには彼がブサメンにしか見えず
一生私の考えていることが理解出来ないかもしれない
いや、理解なんてものは自分の中にしかないのだ
結局は、私の感受性によって私にとっての[理解]が決められるだけであり
私が理解したと思えば理解したのだし
私が理解していないと思えば理解していないのだ